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    字幕ほにゃく犬「ありちゅん」が、字幕ほにゃくハリ「ぐ~ちゃん」とともに書くドイツ映画日記

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2012/11/17(Sat)

Heimatfilm (郷土映画)

(字幕ほにゃく日記からの転載です)

 突然ですが、Heimatfilm (郷土映画)というジャンルをご存じでしょうか。ワタシは名称しか知りません(恥) いえ、前から聞いてはおりましたし、このジャンルに含まれる映画を何本かほにゃくしたこともありました。が、なんとなく食指が動かず、自分から進んで見ようとも思わなかったのです。でもねー戦後のドイツ映画ってコレ抜きには語れないんですよねー。そもそも、なんで戦後の西ドイツで、こんなに牧歌的でユルい映画が大人気となったのか。ホント不思議です。が、なんとなく納得いく解説が「ドイツ映画」(ザビーネ・ハーケ著、山本佳樹訳)という本に載っていたので、引用させていただきますね。長くてすみません。自分用のメモを兼ねておりますので…


『ジャンル映画に新風を吹き込み、連邦共和国にとっての戦後のアイデンティティを構築するために必要な、異文化間や異世代間の遭遇といったものを供給する役目は、「郷土映画」とその物語空間に残されることになった。郷土についての非政治的な概念は、信用を失ったドイツ・ナショナリズムの歴史と、冷戦期の二つのドイツ国家の競争的な状態の両方に、一つの代案を約束した。』

『ハンス・デッペの「黒い森の娘」(1950年)と「緑の原野」(1951年)を皮切りに、「郷土映画」は商業的に最も成功した戦後映画のジャンルとして頭角を現し、安定して500万人以上の観客を動員することになる』

『多くの研究者は、このジャンルの桁外れの人気を、その本質的な保守性によって説明してきた。すなわち、バイエルン・アルプス、シュヴァルツヴァルト、リューネブルガー・ハイデといったドイツの代表的な風景のなかで描かれたのは、父権的家族の正当化であり、規範的道徳への回帰であり、そして前興行的な共同体への隠遁であった。だが、「郷土」をめぐる言説はまた、戦争、排除、強制移住といった歴史的経験や、伝統と近代性とのあいだの進行中の折衝とも、解きがたくつながっていた』

『「郷土映画」は、世代間の葛藤とステレオタイプ的なよそ者の形姿とを通じて、国家の敗北を甘受し、連邦共和国を新しい祖国にするための、想像上の空間を作り上げた。意味深いことに、このジャンルの牧歌的な村や美しい風景のなかに現れるよそ者の多くは、東プロイセンやポンメルンからの難民か、合衆国からの帰国者であった。』

『こうした再生の物語の背後にあって、その推進力となっていたのは、伝統的な社会構造と、同時代の経済的・政治的現実との、調和的な両立を求める欲求であったが、この過程は、しばしば、異質なものとの対決や、そのどうかや編入の成功を中心にして描かれた。こうした矛盾した諸傾向に照らしてみれば、「郷土映画」は、退行的であると同時に進歩的な、帰属のファンタジーであることがわかるのであり、それは、「郷土」という馴れ親しんだ図像を動員して、「都市」対「田舎」といった古い対立よりも、全西ドイツ市民の社会的安寧と経済的繁栄の前提条件としての近代性への共通の信仰に基礎をおく、新しい共同体のアイデンティティを構築しようとするものであった。』(以上、引用終わりです)

↓ ここで挙げられていた、「緑の原野」Grün ist die Heide です。なんちゅうのんびり感とユルさ!なごみ系で牧歌的!…と、この動画を見ただけじゃ、そういった感想しか出てこない。だけどハーケさんの解説を読むと、なんとなくイロイロ納得できちゃう。



 ところで先日、古書店でキネマ旬報1952年6月下旬号を買ってしまいました。ドイツ映画特集があったので、ポチったわけです。そこに、この「緑の原野」の映画評も載っておりました。ご紹介いたしますね。以下、引用いたします。

『ドイツの色彩映画:最近ドイツ最初のゲファーカラー映画「荒野は綠なり」が好成績を収めている。東部からの難民が北ドイツに横たわるリューネブルクの荒野で密猟を生業とする物語。彼の可憐な一人娘(ソンヤ・ツィーマン)と密猟監督の山林官との戀がからみ、主題歌には有名な詩人ヘルマン・レースの詩がそのまま用いられる。これはドイツ人の郷愁豊かなリューネブルクの荒野を舞臺とした點もさることながら、はじめて使ったベルギーのゲフュールト社のゲファーカラーが非常い成功した點で、好評を博している。』

                   キネマ
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2012/11/17(Sat)

Indianerfilm(ネイティブアメリカン映画)の東西比較、そしてパロディ

(ほにゃくブログからの転載です)

、「Indianerfilme」というジャンルをご存じでしょうか。ネイティブアメリカンが主人公の映画。アメリカの西部劇は、どちらかというと白人が中心だけど、Indianerfilme はあくまでも主人公はネイティブアメリカン。60年代のドイツで流行ったジャンルです。その人気を支えたのが、19世紀末から20世紀初頭にかけて次々と出版された Karl May (カール・マイ)の冒険小説。このカール・マイという人、ドイツではチョ~人気なんだそうですが、日本ではそれほど知られていないですよね。でもドイツ人って、とにかくこのカール・マイが大好きなような気がします。

 で、このインディア~ナ~フィルムの人気に火をつけたのが、この作品↓ カール・マイ原作「Winnetou (ヴィネトゥ)」(1963年)。ネイティブアメリカンのヴィネトゥと、アメリカへ渡ったドイツ人のオールド・シャッターハンドとの友情物語です。そしてキーワードは、Blutsbruderschaft(辞書によると、「互いに血をまぜた杯を飲み合った血盟の友、盟友。義兄弟とも。)。2人が向き合い、正面で手を組み合わせて盃をかわすシーンは他の映画でもちょくちょく見かけます。実は私も友人宅へ遊びに行ったとき、「面白いから見ておけ」と言われ、このヴィネトゥのビデオを見たのでした…(大人のワタシには、ちょっとタイクツだったかも^^;途中でコックリコックリしちゃった)撮影地はクロアチアですって。



面白いのは、このインディア~ナ~フィルムが東ドイツでも流行ったこと。当初、カール・マイは東ドイツでは禁止されていたということで、カール・マイもどきの作品が上映されたようです。それが、コレ ↓ 「偉大な雌熊の息子たち」(1966年)。撮影地は、ぬゎんとザクセン・アンハルト。背景に針葉樹林も見え、どう見てもアメリカの西部じゃない…。いえ、風光明媚ではあるのですがね。西ではネイティブアメリカンと白人の友情を描いたのに対し、東では植民地主義と闘うネイティブアメリカンの姿を描いたんだとか。うーん、いかにも共産主義な作風。この作品で東ドイツにおけるネイティブアメリカン役の座を不動のものにした俳優さん、実はユーゴスラヴィア人なんですって。ゴイコ・ミティツという俳優で、声は吹き替えです。でもこの人、西ドイツのインディア~ナ~フィルムにも出まくっています(苦笑)。いえ、分かります。濃ゆ~い風貌と立派なガタイですから引く手あまただったんでしょう。

ザビーネ・ハーケ著「ドイツ映画」(山本佳樹訳)より引用いたします:『「荒野の七人」(1960年)のようなレトロ調の西部劇や、「荒野の用心棒」(1964年)のようないわゆるマカロニ・ウェスタンの影響を受けたデーファの作品は、インディアンの視点を用い、植民地的な関心や帝国主義の攻撃に対する彼らの苦闘を語り直すことで、西ドイツの「ヴィネトゥ」シリーズへの代案を提出することになった。「雌熊の息子たち」(1966年)における、誇り高く反抗的なダコタ部族の物語によって、シリーズ全体の基本の型が確立した。』『インディアン映画(本文ママ)は、労働階級の文化を保存し、アメリカ流の資本主義の誘惑に抵抗するという、ドイツ民主共和国自身の試みについての、明示的・暗示的な言及を数多く含んでいた。だが、インディアンを闘争と抵抗の象徴として理想化していた初期の映画に対して、のちの作品では、彼らが受けた弾圧により大きな注意が払われるようになるのであり、これは、おそらく、1970年初期に社会主義の危機が高まったことの徴候でもあった。』 (引用終わり)



そしてさらに面白いのが、西ドイツ「ヴィネトゥ」のパロディ。これ、「荒野のマニト」(2001年)というタイトルで日本でも公開されております。「面白い」というのは「興味深い」という意味でございます。ドイツでは大ウケでも、「ヴィネトゥ」を知らない日本人には、何のことだかサッパリ…。元ネタを知らないパロディほど、見ていてイタイものはありませんな。実はワタシ、これの試写を見たのですが、笑い声がクスリとも起こらない「爆笑映画」を見るのってホントに辛い。いたたまれなくなりましたぜ。主演のミヒャエル・ブリー・ヘルビヒって、ドイツではすっごく有名。芸達者でコミカルなのですが、いかんせん日本では無名。今年の初めに東京のゲーテ・インスティトゥートで上映された「ホテル・ルックス」で主役を演じていました。いい俳優さんだと思うのですが、いかんせん日本では…(以下省略)。酒場が実はベニヤ板で、バタンと倒れたり、ネズミ取りを踏んじゃって「イテ~」と飛び上がったり、何かの拍子にウ●チを踏んじゃったりと、まるでドリフターズのノリ。主人公のアバハチがコテコテのバイエルン訛りなので、ドイツ語が分かる方にとってはそれなりに面白いんだけど。オネエ言葉のオカマちゃんも出てきます。


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2012/11/14(Wed)

パウルとパウラの伝説

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『パウルとパウラの伝説』(原題:Die Legende von Paul und Paula)1973年
Heiner Carow (ハイナー・カロウ)監督
Ulrich Plenzdorf (ウルリッヒ・プレンツドルフ)脚本
Heiner Carow (ハイナー・カロウ)脚本
Angelica Domröse (アンゲリカ・ドムレーゼ)パウラ
Winfried Glatzeder (ヴィンフリート・グラッツェダー)パウル


<チョ~簡単なあらすじ>

 パウルには美しい妻がいるものの、ソリが合わず、結婚生活はうまくいっていませんでした。一方、向かいのアパートに住むパウラは2人の子供を女手一つで育てるシングルマザー。彼女は幸せな生活を夢見ていました。そんな2人が出会い、恋に落ちます。しかし一途なパウラとは違い、パウルは妻や自分のキャリアを捨ててまでパウラと一緒になる気はありません。仮面夫婦の生活を続けようとします。煮え切らない態度のパウルに腹を立てたパウラは、つい子供につらく当たってしまいます。そんなある日、パウラの下の息子が自動車にはねられて死亡。自責の念に駆られたパウラはパウルと距離を置こうとします。パウラに強烈に惹かれていることに気づいたパウルは(今更ながら)パウラに猛烈アタック。家の前に籠城します。そんな努力(?)が実り、二人はとうとう一緒になります。ところがパウラは医者から出産を止められていました。母体がもたないというのです。パウラはそれでも子供を産むことを選び、そして医師が危惧したとおり命を落としてしまいます。パウルはパウラが残した子供2人、そして自らの子供2人の4人を独りで育てる決意をするのでした…

 …と、簡単にあらすじを書いてみましたが、これだけを読むと安っぽいメロドラマ。まるで昼ドラですな。ところがこの映画、挿入歌とともに大ヒットを記録したそうです。なぜ?どして?パウルの役者さんなんて、まるでゴリラ(失礼)。イケメンとは程遠いし、パウラも「おきゃん」な感じで、美人女優といった雰囲気ではないのです。この映画が公開された1973年と言えば、西ドイツではまだまだRAF(ドイツ赤軍派) によるテロの嵐が吹き荒れた頃。前年の1972年には、RAFの中核メンバー、アンドレアス・バーダーとウルリーケ・マインホフが銃乱射事件などで逮捕されています。そんな激動の時代だっただけに、本作のような「純愛」「一途」「けなげでたくましい主人公」がテーマの映画が西ドイツ国民には新鮮に映ったのかなぁ?

 さらに、この映画が作られた背景も興味深いのです。東独では1971年にヴァルター・ウルブリヒトが書記長の職を降り、エーリヒ・ホーネッカーが後任となりました。文化政策では、それまでの厳しい締め付けが多少緩み、ある程度の自由が認められるようになったとのこと(あくまでも「ある程度」で、厳しい検閲はなされたそうですが)。映画でも、それまでの「いかにも社会主義的」な映画が大衆に飽きられ、映画館の来場者数は大きく落ち込んでいたとのこと。V字回復(?)を狙うためにも、大衆にウケる映画を、という事情もあった模様です。「パウルとパウラの伝説」は一見、単純なメロドラマのように思われますが、シングルマザーのパウラがスーパーのレジで一生懸命働いて子供を育てたり、純粋でとにかく一途だったりと、やはり模範的な部分があったのかと思います。

 さらに面白いのは後日談。一躍スターとなったパウル役の俳優とパウラ役の女優が、80年代初頭に相次いで西へ亡命しちゃったのです。いわゆる「Republikflucht」(共和国からの逃亡)ってやつ。DDRの模範となるべき2人が西ドイツへ行っちゃうなんて、当局のお偉方は頭を抱えたでしょうねぇ…。シャレにならないもん。そしてこの映画は上映禁止となった模様。

 ところが壁の崩壊後、オスタルギーの流れの中で、この映画が再び注目されるようになったんだとか。カルト的人気があるそうで、NHKラジオテキスト「まいにちドイツ語」11月号の巻頭グラビア(…とNHKテキストでも呼べるのかな)にもパンフレットが載っていました。 ベルリンのHackescher Markt という地区にある映画館では、この映画をずっと上映し続けたんだそうです。パウルとパウラが本当に伝説になっちゃった…。

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