• プロフィール

    ありちゅん

    Author:ありちゅん
    字幕ほにゃく犬「ありちゅん」が、字幕ほにゃくハリ「ぐ~ちゃん」とともに書くドイツ映画日記

  • 最新トラックバック

  • 検索フォーム

  • QRコード

    QR

--/--/--(--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ホーム | Category : スポンサー広告 | Comment | Trackback
2012/11/17(Sat)

Indianerfilm(ネイティブアメリカン映画)の東西比較、そしてパロディ

(ほにゃくブログからの転載です)

、「Indianerfilme」というジャンルをご存じでしょうか。ネイティブアメリカンが主人公の映画。アメリカの西部劇は、どちらかというと白人が中心だけど、Indianerfilme はあくまでも主人公はネイティブアメリカン。60年代のドイツで流行ったジャンルです。その人気を支えたのが、19世紀末から20世紀初頭にかけて次々と出版された Karl May (カール・マイ)の冒険小説。このカール・マイという人、ドイツではチョ~人気なんだそうですが、日本ではそれほど知られていないですよね。でもドイツ人って、とにかくこのカール・マイが大好きなような気がします。

 で、このインディア~ナ~フィルムの人気に火をつけたのが、この作品↓ カール・マイ原作「Winnetou (ヴィネトゥ)」(1963年)。ネイティブアメリカンのヴィネトゥと、アメリカへ渡ったドイツ人のオールド・シャッターハンドとの友情物語です。そしてキーワードは、Blutsbruderschaft(辞書によると、「互いに血をまぜた杯を飲み合った血盟の友、盟友。義兄弟とも。)。2人が向き合い、正面で手を組み合わせて盃をかわすシーンは他の映画でもちょくちょく見かけます。実は私も友人宅へ遊びに行ったとき、「面白いから見ておけ」と言われ、このヴィネトゥのビデオを見たのでした…(大人のワタシには、ちょっとタイクツだったかも^^;途中でコックリコックリしちゃった)撮影地はクロアチアですって。



面白いのは、このインディア~ナ~フィルムが東ドイツでも流行ったこと。当初、カール・マイは東ドイツでは禁止されていたということで、カール・マイもどきの作品が上映されたようです。それが、コレ ↓ 「偉大な雌熊の息子たち」(1966年)。撮影地は、ぬゎんとザクセン・アンハルト。背景に針葉樹林も見え、どう見てもアメリカの西部じゃない…。いえ、風光明媚ではあるのですがね。西ではネイティブアメリカンと白人の友情を描いたのに対し、東では植民地主義と闘うネイティブアメリカンの姿を描いたんだとか。うーん、いかにも共産主義な作風。この作品で東ドイツにおけるネイティブアメリカン役の座を不動のものにした俳優さん、実はユーゴスラヴィア人なんですって。ゴイコ・ミティツという俳優で、声は吹き替えです。でもこの人、西ドイツのインディア~ナ~フィルムにも出まくっています(苦笑)。いえ、分かります。濃ゆ~い風貌と立派なガタイですから引く手あまただったんでしょう。

ザビーネ・ハーケ著「ドイツ映画」(山本佳樹訳)より引用いたします:『「荒野の七人」(1960年)のようなレトロ調の西部劇や、「荒野の用心棒」(1964年)のようないわゆるマカロニ・ウェスタンの影響を受けたデーファの作品は、インディアンの視点を用い、植民地的な関心や帝国主義の攻撃に対する彼らの苦闘を語り直すことで、西ドイツの「ヴィネトゥ」シリーズへの代案を提出することになった。「雌熊の息子たち」(1966年)における、誇り高く反抗的なダコタ部族の物語によって、シリーズ全体の基本の型が確立した。』『インディアン映画(本文ママ)は、労働階級の文化を保存し、アメリカ流の資本主義の誘惑に抵抗するという、ドイツ民主共和国自身の試みについての、明示的・暗示的な言及を数多く含んでいた。だが、インディアンを闘争と抵抗の象徴として理想化していた初期の映画に対して、のちの作品では、彼らが受けた弾圧により大きな注意が払われるようになるのであり、これは、おそらく、1970年初期に社会主義の危機が高まったことの徴候でもあった。』 (引用終わり)



そしてさらに面白いのが、西ドイツ「ヴィネトゥ」のパロディ。これ、「荒野のマニト」(2001年)というタイトルで日本でも公開されております。「面白い」というのは「興味深い」という意味でございます。ドイツでは大ウケでも、「ヴィネトゥ」を知らない日本人には、何のことだかサッパリ…。元ネタを知らないパロディほど、見ていてイタイものはありませんな。実はワタシ、これの試写を見たのですが、笑い声がクスリとも起こらない「爆笑映画」を見るのってホントに辛い。いたたまれなくなりましたぜ。主演のミヒャエル・ブリー・ヘルビヒって、ドイツではすっごく有名。芸達者でコミカルなのですが、いかんせん日本では無名。今年の初めに東京のゲーテ・インスティトゥートで上映された「ホテル・ルックス」で主役を演じていました。いい俳優さんだと思うのですが、いかんせん日本では…(以下省略)。酒場が実はベニヤ板で、バタンと倒れたり、ネズミ取りを踏んじゃって「イテ~」と飛び上がったり、何かの拍子にウ●チを踏んじゃったりと、まるでドリフターズのノリ。主人公のアバハチがコテコテのバイエルン訛りなので、ドイツ語が分かる方にとってはそれなりに面白いんだけど。オネエ言葉のオカマちゃんも出てきます。


スポンサーサイト
ホーム | Category : 映画全般コメント:アイコン Comment0Trackback0
2011/09/15(Thu)

Freiwillige Selbstkontrolle der Filmwirtschaft(ドイツにおける映画のレイティング)

 日本で公開される映画作品は映倫による審査を受けますが、ドイツでも似たようなレイティングシステムが存在します。それがFSK。FSKとはナンジャラホイ?

→ Freiwillige Selbstkontrolle der Filmwirtschaft:ドイツにおける映画産業の自主規制組織。ズバリ、ドイツの映倫。青少年に有害と思われる内容を審査し、レイティングするのがその仕事で、審査規定は JuschG (Jugendschutzgesetz、青少年保護法)に準拠したもの。

組織:映画やテレビ、ビデオなどの映像産業の16団体で構成される上部団体 SPIO (die Spitzenorganisation der Filmwirtschaft e.V.) の100%子会社で、GmbH(有限会社)の形態を取っています。主な収入源は審査料。

歴史:第二次大戦後、ドイツ映画界は占領軍の支配下にあり、厳しい検閲が行われていました。アメリカ軍占領地域で検閲を行った人物は、敏腕プロデューサーとして知られたエーリヒ・ポマー。ユダヤ系であったため、ドイツからアメリカへ移住してハリウッドで活躍していましたが、アメリカ軍にその手腕を買われて戦後のドイツに呼び戻されたのです。その後、連合軍の要求により新しく検閲制度を整えることになりました。そこでドイツ映画界をよく知るポマーに白羽の矢が立ち、1949年6月に検閲機関FSKが誕生するに至りました。その後、1970年までは、このFSKが検閲を行った作品しか上映を許されなかったそうです。なお、初めてこの組織の審査を受けた映画は、戦時中に制作されたものの、ナチ政権からNGを出された作品だとか。しかし戦後、連合軍側(ソ連を除く)からOKが出、設立間もないFSK が初めて審査することになったそうです。1949年のことでした。

審査を行うメンバー:190名を超える担当者が審査に当たるとのこと。映像産業の従事者以外にもジャーナリストや教師、心理学者、学生、主婦など様々な分野の人々で構成され、その任期は3年。

レイティング:主に次のように分けられます。

●freigegeben ohne Altersbeschränkung:年齢制限なし
●freigegeben ab 6 Jahren:6歳からOK
●freigegeben ab 12 Jahren:12歳からOK
●PG (Parental Guidance):「freigegeben ab 12 jahren(12歳から)」と書かれている場合でも、PG の条件つきなら、保護者同伴で 6歳~の子供も見ることができる。
●freigegeben ab 16 Jahren:16歳からOK
●keine Jugendfreigabe :以前は「nicht freigegeben unter 18 Jahren(18禁)」と表示されたそうですが、2003年4月以降は、「未成年入場禁止」という表示に変わったとのこと。』

ホーム | Category : 映画全般コメント:アイコン Comment0Trackback0
2011/08/18(Thu)

UFA (ウーファ)映画会社

p5080022_1.jpg

 サイレント映画など、戦前の古~い映画でよく見かける「UFA」のロゴ。「ウーファ」映画会社はドイツの映画産業を支えたとともに、時代に翻弄された会社でもありました。ざざっと社史を調べると、波瀾万丈。以前、旧ブログで書いた日記ですが、こちらにも転載しちゃいました。

 ウーファ は、Universum Film AG (ウニヴァーズム・フィルム株式会社)の略。その前身は、1917年にドイツ陸軍省内に設立されたBufa (Bild- und Filmamt、写真・映画局)。設立の目的は、戦争用のプロパガンダを流し、戦意高揚に役立てることでした。第一次世界大戦のさなかでしたから。しかし参謀本部はBufa に満足せず、軍人 Ludendorff (ルーデンドルフ)が中心となって同年12月に大規模な映画会社を設立することになりました。それが ウーファで、政府の意を受けた化学資本(後のIGファルベン)、軍需資本(クルップ)、電気産業資本(AEG)、ドイツ銀行が資金を出しています。ウーファは有力映画会社を併合したほか、配給網や劇場も傘下に収めた大会社となりました。

 ウーファは記録映画、ニュース映画、文化映画、サイレント映画を作り始めます。ウーファによる「Kulturfilm(文化映画)」も見たことがありますが、今のNHKが作るような教育的な映画で、それなりに面白くためになる内容になっていました。

 その後の1921年に民営化され、娯楽映画の制作が中心となっていきます。ところが財政事情は悪化。何とか立て直すために1925年、アメリカのパラマウント社およびMGM 社と「Parufamet(パルファメット)」協定を締結。Parufamet とは、Paramount のPar と、Ufa と MGMのMetro~のMet と結びつけた名前だそうです。その内容は、400万ドルの融資を受ける見返りとして、Parufamet という名の配給会社を設立、パラマウント社とMGM 社の映画を年に20本ずつ上映するというものでした。ドイツの映画もアメリカで上映してもらう約束でしたが、それには「アメリカサイドが断ることもできる」という条項つきで、事実上はアメリカ優位の不平等な協定だったそうな。その結果、ドイツの映画館ではハリウッド映画ばかりが上映され、ウーファの財政難はますます深刻に。このパルファメット協定は1927年まで続きました。この窮地を救い、倒産寸前のウーファを買い取ったのは、ドイツ国家人民党の党首にして企業家の Hugenberg (フーゲンベルク)。しかし彼は、ナチに従順かつ深くかかわった人物で、後に経済相として入閣しています。

 ナチ政権になってからはゲッベルスの宣伝戦略に利用され、他の映画会社と同様、国有化されてしまいました。ナチスが映画というメディアを駆使して巧みに宣伝を行い、国民を洗脳していったのは有名な話ですよね。ゲッベルスの指導に従い、当時大勢いたといわれるユダヤ系の映画人を率先して社から追放したそうです…これがドイツ映画界にとっての悲劇の始まり。「アーリア人条項」により人材は次々と海外に流出。

 ドイツの敗戦と戦後の混乱期。東側にあったスタジオは、DEFA となり、東ドイツのプロパガンダを垂れ流す映画会社へ。西側に残ったウーファは紆余曲折を経て1956年に再び民営化…。

 …と、ざっと調べただけですがこんな感じでした。大変な時代を経てきたんですね。それにしても、才能ある映画関係者(監督、製作者、脚本家、カメラマン、映画音楽の作曲家、俳優など)が流出したのはイタかった・・・。レニ・リーフェンシュタールがナチス寄りの映画を作り続ける一方で、ナチスを嫌ってアメリカに渡った映画人たちはハリウッドで活躍する存在となっていきました。皮肉ですな。

(参考文献:キネマ旬報社「世界の映画作家34、ドイツ・北欧・ポーランド映画史)
ホーム | Category : 映画全般コメント:アイコン Comment0Trackback0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。